六道辻 [宇都宮]
宇都宮市六道町です
此処、六道辻に「戊辰役戦士墓」がある
宇都宮城の攻防をめぐる激戦の地であった此処、地元の方々により守られてきた戦士墓にお参りをして来た
戦闘の概要
慶応 4年(1868)
・ 4月19日 旧幕府軍、宇都宮城を攻略
20日 新政府軍第一次救援隊、壬生に到着
22日 安塚の戦いで新政府軍、旧幕府軍を撃破
23日 新政府軍、宇都宮城を奪還
24日 旧幕府軍、今市に到着
記念碑には
戊辰役戦士墓/明治百年祭 記念碑
明治戊辰の役官軍に属して勇躍出陣した宇都宮藩兵は九月四日会津城下飯寺(にいでら)村において越後長岡藩兵と戦い本藩戸田三男隊が敵将山本帯刀及び部下七、八名を捕え軍監中村半次郎(後の桐野利秋)の命により帯刀を薩州隊に移し兵たちを斬った彼らは首の座に臨み計二百両を集めて処置を三男に委せ従容として斬られたが実にこの墓こそはこれを基金としさらに三男ら士民の義心により長岡藩将兵の亡き霊を弔らい併せてこの地六道口の激戦における会津藩等戦没幕兵を合葬した仁侠悲涙の結実である(官軍戦死者はすべて官修墳墓として各所に管理されている)因に帯刀は斬られる時愛刀一振を三男に託し三男は帰国後これを戸田藩主に贈ったが現在この由緒の剱は当地の護国神社に秘蔵されている
戊辰戦争で戦死した新政府軍兵士を慰霊するため、明治政府が一定額の負担をして維持、管理をした墓のことである
二度の戦いがあった宇都宮には多数の官修墓があり、供養されたのは宇都宮藩士ばかりではなく薩摩・長州・大垣・土佐藩士などさまざまである
新政府軍が宇都宮城の奪還をめざして戦った六道の辻付近は、新政府軍、旧幕府軍共に戦死者が多く、近くの報恩寺や光琳寺、一向寺等に多数埋葬された。報恩寺には県内では最多の官修墓が有るが、中でも目を引くのは薩摩藩戦死者墓で、二十三名の戦死者名が刻まれている。境内には県六石の撰による「戊辰役戦士記碑」や薩摩・長州・大垣藩の戦死者を祀る「戦士烈士之墓」がある
光琳寺には官修墓の因習藩士の墓と旧幕府軍桑名藩士の墓が向かい合って建っている。双方ともに合葬墓で、因習藩士の墓は南向き、桑名藩士の墓は北向きである。ともに七名の氏名が記されているが、桑名藩士の墓は簡素で規模も小さい
ちょうど管理されている方が来られました
こちらはすぐそばにある「六道閻魔堂」です
六道厄除閻魔法王略縁起
その昔第45代聖武天皇の御代今より1100年ほど前、行基という高僧が居った。行基は欲にのみふけって来世に苦難を受けることを知らない人々の余りに多いのをあわれに思し召され、すみやかに安養浄土に生まれる方法はないものかと7日の間阿弥陀仏を念じ給われた。
満願の日の暁に大憤怒の相で閻魔法王が現れ給い「汝末代の衆生のために予の像をちょうこくして罪悪の衆生を救うべし」と、忽ち(たちまち)御姿を消し給われた。
そこで行基はお告げの通り、尊像三体をちょうこくして開眼供養し、大念仏を修し給われた。その後、弘法大師が真言の一宗を広め給われた時、この秘仏は大師に「汝と共に東国へ赴き迷える衆生を救わん」と告げ給われた。
日光登山の折、尊像と共にこの地にお立ち寄りになられたところ、不思議に大師をお守りになったので、大師はこの地こそ有縁の地であると思し召され、一堂を建立し、あつく尊像を安置し、又、この地を六道と名づけられた。
かくして、この尊像を拝して厄難を免れ二世(現世、来世)安穏の御利益を得るものは年をへると共にその数知れず現在に至っている。・・・一部見えないところもあります。
大きなケヤキもあります
色々な歴史を見てきたのでしょうね
宇都宮にはこのようなところがあります
此処、六道辻に「戊辰役戦士墓」がある
宇都宮城の攻防をめぐる激戦の地であった此処、地元の方々により守られてきた戦士墓にお参りをして来た
戦闘の概要
慶応 4年(1868)
・ 4月19日 旧幕府軍、宇都宮城を攻略
20日 新政府軍第一次救援隊、壬生に到着
22日 安塚の戦いで新政府軍、旧幕府軍を撃破
23日 新政府軍、宇都宮城を奪還
24日 旧幕府軍、今市に到着
記念碑には
戊辰役戦士墓/明治百年祭 記念碑
明治戊辰の役官軍に属して勇躍出陣した宇都宮藩兵は九月四日会津城下飯寺(にいでら)村において越後長岡藩兵と戦い本藩戸田三男隊が敵将山本帯刀及び部下七、八名を捕え軍監中村半次郎(後の桐野利秋)の命により帯刀を薩州隊に移し兵たちを斬った彼らは首の座に臨み計二百両を集めて処置を三男に委せ従容として斬られたが実にこの墓こそはこれを基金としさらに三男ら士民の義心により長岡藩将兵の亡き霊を弔らい併せてこの地六道口の激戦における会津藩等戦没幕兵を合葬した仁侠悲涙の結実である(官軍戦死者はすべて官修墳墓として各所に管理されている)因に帯刀は斬られる時愛刀一振を三男に託し三男は帰国後これを戸田藩主に贈ったが現在この由緒の剱は当地の護国神社に秘蔵されている
戊辰戦争で戦死した新政府軍兵士を慰霊するため、明治政府が一定額の負担をして維持、管理をした墓のことである
二度の戦いがあった宇都宮には多数の官修墓があり、供養されたのは宇都宮藩士ばかりではなく薩摩・長州・大垣・土佐藩士などさまざまである
新政府軍が宇都宮城の奪還をめざして戦った六道の辻付近は、新政府軍、旧幕府軍共に戦死者が多く、近くの報恩寺や光琳寺、一向寺等に多数埋葬された。報恩寺には県内では最多の官修墓が有るが、中でも目を引くのは薩摩藩戦死者墓で、二十三名の戦死者名が刻まれている。境内には県六石の撰による「戊辰役戦士記碑」や薩摩・長州・大垣藩の戦死者を祀る「戦士烈士之墓」がある
光琳寺には官修墓の因習藩士の墓と旧幕府軍桑名藩士の墓が向かい合って建っている。双方ともに合葬墓で、因習藩士の墓は南向き、桑名藩士の墓は北向きである。ともに七名の氏名が記されているが、桑名藩士の墓は簡素で規模も小さい
ちょうど管理されている方が来られました
こちらはすぐそばにある「六道閻魔堂」です
六道厄除閻魔法王略縁起
その昔第45代聖武天皇の御代今より1100年ほど前、行基という高僧が居った。行基は欲にのみふけって来世に苦難を受けることを知らない人々の余りに多いのをあわれに思し召され、すみやかに安養浄土に生まれる方法はないものかと7日の間阿弥陀仏を念じ給われた。
満願の日の暁に大憤怒の相で閻魔法王が現れ給い「汝末代の衆生のために予の像をちょうこくして罪悪の衆生を救うべし」と、忽ち(たちまち)御姿を消し給われた。
そこで行基はお告げの通り、尊像三体をちょうこくして開眼供養し、大念仏を修し給われた。その後、弘法大師が真言の一宗を広め給われた時、この秘仏は大師に「汝と共に東国へ赴き迷える衆生を救わん」と告げ給われた。
日光登山の折、尊像と共にこの地にお立ち寄りになられたところ、不思議に大師をお守りになったので、大師はこの地こそ有縁の地であると思し召され、一堂を建立し、あつく尊像を安置し、又、この地を六道と名づけられた。
かくして、この尊像を拝して厄難を免れ二世(現世、来世)安穏の御利益を得るものは年をへると共にその数知れず現在に至っている。・・・一部見えないところもあります。
大きなケヤキもあります
色々な歴史を見てきたのでしょうね
宇都宮にはこのようなところがあります